彷徨亭日乗 −川村毅の日記−

公演情報
■ティーファクトリー『荒野のリア』
ドラマ・ドクター
全てを失い荒野を彷徨う男たちが 狂気との葛藤の先に見たものは?! 再演五都市ツアー!

三人娘が登場しないリア王!?いきなり第三幕から始まるリア王!?あの麿赤兒が演じるリア王!?

荒野をさまよい葛藤する男たちのドラマ、1時間40分一幕。凝縮された「リア」の世界。原作通りの上演です。川村毅の加筆は一切ありません。

初演時、大反響を呼び起こした『荒野のリア』が、新たなキャストを加えて甦る!

【公演日】
2016/9/14(水)〜9/19(月・祝)
【会場】
吉祥寺シアター(東京都)

【公演日】
2016/10/1(土)〜10/2(日)
【会場】
京都芸術劇場 春秋座(京都造形芸術大学内)

【公演日】
2016/10/15(土)〜10/16(日)
【会場】
KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ (神奈川県)

【原作】W.シェイクスピア「リア王」(松岡和子訳)
【構成・演出】川村毅
【出演】麿赤兒、手塚とおる、米原幸佑、志村史人(俳優座)、笠木誠、中村崇、萩原亮介(文学座)、森下庸之、太平


本公演は終了いたしました。
ご来場ありがとうございました。

≫e+でのチケット発売情報は
こちら


CD/DVD/BOOK情報
◆「川村毅戯曲集2014-2016」
論創社
(2016/5)
¥2,200 (税別)

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4◆『神なき国の騎士』
論創社
(2014/3)
単行本:¥1,575 (税込)

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4◆『4』
論創社
(2012/10)
単行本:¥1,575 (税込)

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aa300_book.jpg◆『リハーサル』小学館文庫 6/7刊行 (2011/06/07)
文庫:¥690(税込)

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『春独丸』『俊寛さん』『愛の鼓動』◆「『春独丸』『俊寛さん』『愛の鼓動』」論創社 (2010/10)
単行本:¥1,575 (税込)

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新宿八犬伝[完本] ◆『新宿八犬伝[完本]』未来社 (2010/09/22)
単行本:¥6,090 (税込)

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歩きながら考えた ◆『歩きながら考えた。』五柳書院 (2007/07)
単行本:¥2,625 (税込)

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AOI KOMACHI ◆AOI KOMACHI (2003/11)
単行本:¥ 1,575 (税込)

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ハムレットクローン◆ハムレットクローン(2000/01)
単行本:¥ 2,100 (税込)


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フリークス―残酷のファッショ
ン・ショー1幕◆フリークス―残酷のファッション・ショー1幕(1987/02)
単行本:¥ 1,470 (税込)

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ジェノサイド,ニッポン・ウォーズ
―川村毅第一戯曲集◆ジェノサイド,ニッポン・ウォーズ―川 村毅第一戯曲集(1984/11)
単行本:¥ 1,890 (税込)

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新宿八犬伝―川村毅第二戯曲
集◆新宿八犬伝―川村毅第二戯曲集 (1985/11)
単行本:¥ 2,625 (税込)

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書き物作業が一段落したので、モンテ・ヘルマンの『果てなき路』を見に行った。
完璧である。映画を撮ることを巡る、その形而上学と俗的なもろもろ、すなわちフィルムの思考とでも名付けたいサスペンス。しかも映画内映画を描きつつ、きっちりフィルム・ノワールに仕立て上げるというジャンルへのこだわりが、また完璧な映画と呼びたい所以だ。
そう、映画撮影とは、複数人数による策略、詐欺、犯罪であり、これはすでにヴェンダースの『ことの次第』が描いている通り、キャメラは拳銃である。
やはり、映画は、拳銃、車、酒、裸だ。
そう考えると演劇というジャンルは映画に比べると倫理的だよな。
なにかしらテーマやらイデオロギーやらを主張せずにいられないからねえ。
いや、演劇がそうなのではなく、演劇人がそうなんだな。良くも悪くも朴念仁。

途中、挿入されるプレストン・スタージェスの『レディ・イヴ』の監督名、タイトルが思い出せず、なんだったっけなんだったっけと考えながら、映画を眺めていた。『ミツバチのささやき』、『第七の封印』はすぐに出てきたけれど。
うまそうに酒を飲み、おいしそうにタバコをふかし、うまそうにものを食べるシーンがある映画は掛け値なしにいいのだ。
今週のことである。
月曜日は、横浜に向かい午前中は墓参り、午後病院見舞い、そして渋谷で映画なんぞひっかけて帰ってこようと目論んだものの、朝のゴミ出しの時点で体が沸騰し、動けず、結局午後に出て病院見舞いだけに終わった。
墓参りにいって仏さんになっちゃったら洒落にならないという冗談が冗談でなくなりそうな気配だった。広大な霊園には逃げ場がない、その光景を想像するだけで、もう体が沸点に達しそうであった。これは九月に延ばそう。
昨日も月曜におとらず暑かったのだが、今週で終わってしまうフィリップ・ガレルの『灼熱の肌』を見た。昼ドラのストーリーも撮る人が撮る人だとこうなるわけだ。『愛の残像』ともども主演のルイ・ガレルはほとんどトリュフォー映画のジャン・ピエール・レオだ。
見終わって体力がまだあるのを確認して、モンテ・ヘルマン『断絶』を見ようと決めたのだった。これも今週で終わりだから。バルで軽く白ワインをひっかけ、見たところ、もう大傑作だったわけですよ。
70年代のアメリカ映画についていろいろ考えた。帰宅して少年の頃買ったスクリーン、ロードショーといった映画誌を取り出して眺めた。『断絶』は記憶通り、1972年12月号スクリーン誌の封切り作品グラビアページに紹介されている。しかし、当時はまるで、まったく話題に上がらなかった。日本でなにかしら言及した人は皆無なのではなかろうか。
世間は、アメリカン・ニュー・シネマといえば、『イージー・ライダー』、『俺たちに明日はない』、『明日に向かって撃て』という時代であった。私は当時から現在まで『イージー・ライダー』は若干の留保つきで乗れるものの、『明日はない』、『明日に向かって』はほとんど面白くない。特にジョージ・ロイ・ヒルはこの後『スティング』を撮ってさらに大人気監督になるのだが、私はこれも熱狂する周囲においてけぼりであった。
『明日に向かって撃て』でいいと思ったのは唯一バート・バカラックの音楽で、「雨にぬれても」はあまりに有名だが、私か好んだのは追跡シーンで流れるスキャットだった。パッパラララ、パッラララ、パッパパー、タリラリラリラリリーっていうやつ。
とはいうものの、70年代のアメリカ映画は、かなりの質だ。こういう時代がアメリカ映画にもあったのだと感慨ひとしおだ。
『ファイブ・イージー・ピーセス』のジャック・ニコルソンはよかった。
今でも心に残っているのは、フランク・ペリーの『泳ぐひと』、『ドク・ホリディ』、『去年の夏』といった映画達だ。『泳ぐひと』は実に不思議な傑作で、『ドク・ホリディ』はステイシー・キーチが主演したくらーい西部劇でその暗さがたまらない魅力だった。そういえば、ステイシー・キーチという俳優はリチャード・フライシャーの『センチュリアン』という、これも救いのない警官映画に主演していて、ハンサムでもなく、これといった特徴もない人なのだが、その無個性さが妙にリアルだった。
『去年の夏』は町山智浩氏が『トラウマ映画館』で詳細に記述している。
『ドク・ホリディ』の制作年は『断絶』と同じ1971年だ。恐るべき年だったのかも知れない。こういうことは後年にならないと見えてこないものだ。 
モンテ・ヘルマンの『断絶』を見た。
見て良かった。大傑作。こういうことがあるので、見ていない映画があることは恐ろしい。
この映画を前にすれば、ほとんどの、かつてアメリカン・ニュー・シネマと呼ばれていたものは、色褪せる。
深い、とてつもなく深い。何も語っていない故に深い。
フィリップ・ガレルの『愛の残像』を見た。久々に映画を見たという興奮を覚えた。
しかし、主人公にはまるで共感を覚えない。まあそうしたものだ。映画の興奮とは主人公に共感できるかどうかではない。
ガレル伝説とは無縁のそこいらのにいちゃんやらねーちゃんたちが見たら主人公のこのひきずりぶりに、ボーゼンとするだろう。しかし、主人公のキャラを焦点にこの映画を見たとしても、それはそれでガレルが最後のヌーヴェル・バーグという呼ばれ方がいかに正しいかが証明できる。ひとりの女性への未練たらたらぶりは、ゴダール、トリュフォーお得意のキャラだからだ。
死ぬこたあない、忘れろよと言いたいが、これをいっちゃあ身も蓋もないのだな。
夕方、5時6時あたりになると、急激に眠気に襲われる。ほとんどまぶたを開けてられないほどの強烈なものだ。30分ほど熟睡するとさっぱりするが、それができない状況だとつらくて仕方がない。その30分のシェスタが気持ちよくて気持ちよくて…

『ドラゴン・タトゥーの女』はオリジナルのスエーデン版の『ミレニアム』のほうがいい。
ハリウッド版には猫族にとっては許せないシーンがあり、オリジナルにもそれがあった時にはどうしようかと思ったが、なかった。まったくハリウッドの映画屋は余計なことをする。ラストもハリウッド版はシリーズ化するつもりがはなからないせいか、メロで終わらせている。これがどうかと思う。

『トラウマ映画館』の影響でラリー・ピアースの『ある戦慄』のDVDを購入してしまい、早速見たが、思いの外おもしろくない。地下鉄で暴れるチンピラの、こいつら注射ウッとんのかというほどの、疲れを知らない元気ぶりがなんか不自然で、このふたりがご丁寧に車両のさまざまなそれぞれの事情を抱えた乗客達に絡むのだが、その律儀さが下手くそな戯曲のようだ。なんでこのちんぴらこんなに元気なのかと思う。その元気さに律儀につきあっている乗客が不自然だ。恐怖のため、自己保身のためというのが社会批評ポイントなわけだが、相手は酔っぱらいだろ、どうにかできるはずだと思うのだが。
『トラウマ映画館』の文章のあらすじのほうがおもしろい。もっともこういう映画は子供のころテレビで見た記憶のなかでのおもしろさなんだよな。大人になって再見すると、アレッなわけだ。
私にとっては『ジェーンに何が起こったか?』、『顔のない目』がそうだな。

話は変わるが、大学生の親のなかでも大学に理不尽なクレーム、悪態をついてくるモンスター・ペアレンツが存在するということだ。私は被害を被ったことがないが、そうした親たちは聞くと、私とほぼ同世代だ。情けない限りだが、ふと思ったのは私の世代とは学校内暴力容認の時代を生きており、教師にはばしばし殴られ、いかに教師側が明らかに理不尽であってもまったくそれを立証、主張できる機関も機会もなく、卒業式の日に、あの馬鹿センコーをぼこぼこにしてやろうかと相談するも、現実には実行せずといった、教師に対しては泣き寝入り世代であり、学校と教員にはもともと不信感しか持っておらず、わが世代は自分の子供を通して、今学校と教員に復讐しようとしているのではないか。
もっとも、そうした体験も私の場合、主に小学校、中学校の時点で終わっていて、大学ではすでに学生として勝手に生きていたわけであり、大学生の親が出てくるという事態は、学生及び大学本体の幼稚化、広げれば社会の大人の幼稚化現象に他ならない。
やれやれ、まったく大学はどんどん高校のようになっていく。研究者、学者として生きようとする生粋の大学人は、本当に気の毒だ。すぐれた学者がすぐれた高校教師になれるとは限らない。
そいで昨日はiPadで『ミッション・インポッシブル』を新幹線車内で見た。トム・クルーズが衝撃時に見せる白痴のような表情がいい。トム・クルーズはどの映画でもこの顔をする。その時がいい。
調子に乗ってホテルで夜、『ピラニア』を見て、気分悪くなる。ひさしぶりのエロ・グロ・ナンセンス!
こういうのをエロ・グロっていうの、パゾリーニはエロ・グロじゃないの、エロスと残酷っていうの!
旧聞になってしまったが、人並みに金環日食を見て感動した。何かが憑依したようだ。前日までどうせ曇りで見えないだろうと何も準備していなかったのだが、夜になって急に近所のコンビニに走って専用メガネを買った。起床して晴れ間があるのに興奮した。

その日はカリウスマキの『ル・アーヴルの靴みがき』を見たが、巨匠然とした語り口に驚いた。晩年の仕事のようだ。成功者の余裕が感じられる。
このスピルバーグの新作はアメリカ映画のなかの一ジャンルとでもいうべき動物感動モノとして実によくできている。見ていて、クラレンス・ブラウンの『仔鹿物語』とか思い出した。まあ、この監督、相変わらず泣かせところがうまいや。前半はもたもたしてて、けっしてうまくないけど、やっぱり戦闘シーンになると冴え渡る。
とにかく馬がきちんと表情を持って描かれているのがよかった。以前『シー・ビスケット』って馬の映画があって、けっこう褒めてる人いたんだけど、どこがいいんだと思った。肝心の馬がほとんど映らないからだった。
映画じゃ犬も泣かせるけど、馬も泣かせるねえ。そう考えると猫の動物感動モノってあまりないんだよな。そう、猫は違うの、猫は複雑だからメロドラマには合わないの。メロドラマという場所に置いても、ぴょんとどこかに移ってしまうのが猫だもの。
それとも『長靴をはいた猫』はメロドラマか?
俄然見たくなってきた、『長靴をはいた猫』。

そういうわけで、最近けっこう映画館で映画見てるな。
『ヒミズ』見たし、『生きているものはいないのか』も見た。
あと『ニーチェの馬』、『ドラゴン・タトゥーの女』
茨城のロケ地で先ほど無事終了。実はこれ一部では、あっと驚きのキャスティングなんですが、今はまだ言えない。お楽しみにね。
朝6時、スバルビル前集合。ロケバス出発場所。懐かしい、映画のロケバス出発も大抵ここだったなあ。今日は暖かいから助かる。